ブログ、再開しました

晴雨堂公式ブログ「今日も、晴雨堂で。」

たくさんの方に楽しみにしてもらいながら、すっかり更新が滞っていましたが、このたびこちらで再開しました!今後はしっかりと更新していこうと思っています。

 

この1年半ほど、心理学・カウンセリング技術を磨くことに力を入れていました。これからは、2007年に取得したままにしていた「産業カウンセラー」の資格も、肩書として名乗ることに。

晴雨堂の営業時間を削って研修に出ていることも多かったので、ご予約いただけない時間帯、電話のつながらない時間帯も多く、みなさまには大変ご迷惑をおかけしておりました。

今後は落ち着いて営業していく予定。ぜひご連絡ください。

 

7年目に突入した晴雨堂。これまでの出会いとご愛顧に、心より感謝いたします。

新たな出会い、新たな展開にも、開かれていたいと思います。

 

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!

 

晴雨堂  横山章子

  

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人生、時々不思議な「追い風」のようなものが吹いて、自分が予想もしていなかった未来に運ばれていくことがある。

2011年、東北の震災のあったあの年に、ここ「晴雨堂はり灸マッサージ」ができたのもそんな流れふだった。「すべてが成り行き」なんてそんなワケないだろうと笑われますが、もともと独立する気がまったくなかった私が、急に予定が空いたある1日に「ひやかしのつもりで」「ちょっとした出来心で」店舗物件を見てみよう、と代々木八幡に降り立ってから、次の小石、次の目印、次の矢印が指す方向に進んで、、、と順に目の前に出て来るものに従ううちに、ひとつの治療院ができあがってしまう、そんなことがあるものなのだ。

あれ?なんでこうなった?と今でも笑いながら振り返る。(でも、それが人生だ。それが人生ですよ!)

 

「意志あるところに道は拓ける」と言うけれど、意志なきところにも道が拓けちゃうことがあるんじゃないだろうか。

自分の意志や意図がまったく作用していないとは思わない。

「独立したい」という意志がまったくなかったという訳でもない。

けれども少なくとも私にとっては、もっと大きな風、もっと大きなダイスの転がりが、事を大きく動かしているように思える。それは個人の意志すら易々と動かしてしまう。

 

突然目の前の視界がさーっと開けてまっすぐな道が現われ、同時に信号が「青」になるのが見える。気づくと足はすでにアクセルの上にあって、次にはもう自然とそのアクセルを踏み込むことになる。

「そうだ、道が見えりゃ 進まずにいらんない 男ならしょうがないさ」と歌う歌がありますが、道が見えたなら進むしかないじゃないか(男じゃなくたってさ!)と、本当に思うのです。

ひょっとすると、道が見えたときにはもう進み始めているんじゃないか。あるいは気づかなかっただけで、ずっと前からその道の上を進んでいたのかもしれない。

 

まあとにかく、人生に何度かそういう風が吹く。道は見え、足は進むけれど、行き先がはっきりしているわけでもない。

去年の春にも、私の中でなぜか突然に、強い春一番のような風が吹いた。

それは後ろから強く吹いて、自分をぐいぐいと前に進ませようとするような風で、言葉にするのなら「おまえの持つ力のすべてを使え。すべてを活かせ。眠らせているすべての能力を呼び起こせ。今!」という感じだった。

そんな時は、思いついたものをまずやってみればいいことはわかっていた。選択が間違っていたら、おのずと修正されるだろう。そうしてこの1年半ほどは、これまで以上に心理・カウンセリング系の勉強に積極的に勤しむことにした。

 

マッサージにせよ鍼にせよ、「施術」というのは通常、施術者→患者 というのが、理解されている作用の方向だろうと思う。

でも、これは以前も書いたかもしれないけれど、私にとっては施術というのは、こちらが相手を「変えよう」として何かするというよりは「耳を澄まして、聴こえた声に応える」というような、受動的な作業であるという感覚が強い。もちろん、より好ましい方向に身体が変わっていくことを目指してはいるのだけれど、それはあくまで施術の事後的な「結果」であって、施術そのものは、ひたすら自分が受け手・聴き手になるような感覚。施術者←患者 で、矢印は逆。

 

今ここにある凹みや膨らみのその「立ち現われ」を、丁寧に、ひたすら丁寧に受け取り続けていくこと。ところどころに出会う、本当に静かに耳を澄まさないと聴こえないような囁きや主張、身体の織りなす細かな強さや弱さをただ聴き、「そこにいるのがわかったよ。それを聴いたよ。」と応えていくこと。生命の造形をただなぞっていくような振る舞い。

 

施術のこのような姿勢が、私の中ではロジャーズ言うところの「積極的傾聴」にぴたりと重なってくる。

 

「相手を変えよう」というよりは、ただその訴えを「受け取ろう」「認めよう」とすることに力を注ぐようなあり方。相手の形、その今、そのありように「敬意」を払い、「尊重」するような姿勢。

 

でもそのような他者との出会いによって、「結果的に」、身体は(あるいは心は)変化する。

それ自身の内側で、それ自身の必要に応じて、あるところは何かを手放し、またあるところはしかるべき力を帯びる。ほぐれたり、力を得たりする。

 

私にとって施術とは、身体における「静かな対話」のようなもなので、聴き手としての技術を磨くことは、確実に施術者としての手の精度につながっているように思う。

 

このところなぜ自分がカウンセリングの勉強に力を入れることになったのか、よくわからないところもあったのだけれど、何かもうひとまわり、自分自身の「受け手としての精度」を上げる必要があったのかもしれない。これから出会う、誰かや何かのために。

 

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