「自分の名前を思い出せ」

「あなたは自分の名前の意味を知っていますか?」

と、ある日なじみの患者さんから言われたことがある。15年ほど前、私はまだ鍼灸の学生で、整形外科のリハビリ科でアルバイトをしていた時のことだ。大手出版社の校閲課に勤めるその博識な初老の男性は、担当だった私に、施術のかたわら、いつも興味深い話を聞かせてくれた。(思えば本もずいぶん頂いた。)

 

自分の名前にまつわるその唐突な質問に驚きながら、「章子(あきこ)」という名に親がこめた意図等々を、適当に答えたように思う。するとその患者さんは、なぜかうれしそうに「あなたは、自分の名前の意味をまだ知らないんですね。」と言い、後日、私の名前にまつわる詳しい資料を持ってきてくれたのだった。

 

彼の持ってきてくれた資料を見て初めて、私は自分の名前の「章」という漢字が「針」を示す象形文字から来たものであることを知った。

 

漢文学者、白川静氏によれば、「章」は注射針。真ん中の「日」は液溜めで、その下の「十」は針。言われてみれば「章」の字は本当に、注射器の形そのままを写し取ったような姿である。

ちなみにこの針は、医療用というよりは主に「入れ墨」用の針であったらしい。

 

鍼と針の違いはあるとは言え、自分の名前に「はり」が入っていたことに、私はとても驚いた。鍼灸師になろうとしている自分が、実はもともと「針の子」と名付けられ、そう呼ばれ続けて生きてきたとは、まさか思いもよらなかった。(もちろん、名付けた家族の誰もそんなことは知らなかった。)

驚くばかりの私に向かって、「あなたは絶対にこのことを知っていなくてはならないと思ったんですよ。」とその患者さんは笑った。

 

「名は体を表す」とか「言霊(ことだま)」について、深く考えていた時期がある。

こうして自分の名前の意味を知るよりもさらに6年ほど前、大学生のころのことだ。

 

当時親しかった友人に「さち」という子がいた。ひらがなで「さち」。

ある時その子のことをしみじみと「ああ、この子は本当に、人の幸、この世の幸なんだなあ」と思ったことがあった。優しくチャーミングで、まわりをよく笑顔にし、人を幸せな気持ちにする子だった。

当時親しかったもう一人の友人の名前は「美和(みわ)」。美和はコミュニケーション能力に長けていて、どんな集団にもするりと溶け込んだ。周囲の人たちの特徴を的確にとらえてその中で絶妙な調整を図る、まさしく「美しい和」を保つ人だった。(本人にはそれがコンプレックスにもなっていたようだけれど。)

そんな風にして友人たちの名前を見ていくと、どの名も「名は体を表わす」の通り、本人たちをよく表していた。

 

でもよくよく考えてみると、それは当然のことであるようにも思った。さちは生まれて間もないころから「さち」と呼ばれ続け、「さち」として振る舞い、「さちです」と名乗り、名を呼ばれれば「さち」として振り返る。彼女は間違いなく「さち」であり「さち」として生きてきたのだ。「美和」もしかり。

 

「それぞれにぴったりな名前が付けられた」のではなく、おそらく順序は逆で、私たちは付けられた名に引き寄せられ(あるいは縛られ)、その名の示す人物へと成長してしまう。もちろん付けられた名前に抵抗することもできるだろうし、「名前負け」することだってあるのだけれど。

「名は体を表す」?、それよりもむしろ、「体は名を表す」と言った方が正しいんじゃないのかな。

彼女たちともよくそんな話をしていた。

 

そのころ美和が、「章子」の名を持つ私に言ったことがある。

「あなたはさ、物書きか政治家か、宗教家になりなよ。」

私はそのどれにもなろうともなれるとも思っていなかったけど、今思えば彼女の言葉は少なからず私の未来を指し示していたのかもしれないと思う。

 

もう一度、「章」と「針」に話を戻そう。

自分の名前の意味を知って驚いたという顛末を、当時仲の良かった友人の一人にしたところ、某大学哲学科の助教授であるその友人は、職業柄か強く興味を惹かれたようで、「さらに踏み込んで調べてみたの」と言って、さらに後日、結果をうれしそうに報告してくれた。(この話にはどうやら、文系の専門家たちを次々に熱くさせる何かがあったらしい。)

 

彼女は古代における「入れ墨」の意味について教えてくれた。「入れ墨」は主に囚人に入れるためのものだったが、時に宗教的な儀式において、神との交信や、そのつながりを示すとして施されるものでもあったらしい。

「つまりあなたの仕事は、同じように、きっと神様との交信を行う仕事なのよ。あなたがしようとしているのは、そういうことなのよ。」

彼女はにこにこしながら、そう言った。

 

 

2017年、9月の今現在。私は鍼灸マッサージの施術者として日々を送っている。物書きでも政治家でも宗教家でもないし、あからさまに「神との交信」をするでもない。でもそのどれもが、今の自分の働きの中に確かに要素として含まれているように思う。

 

先の白川静『字通』には、「章」の字の意味について次のようにある。

「あきらか、入墨の器で入墨すること、その入墨の美しいこと。あらわれる、あや、あきらかにする。(・・・)」

 

確かに、身体を扱う施術者の仕事は、何かを「明らかにする」仕事であるように思う。でもそれは単純に「身体の不調を」とか「不具合を」明らかにするだけではない。

 

施術者は患者という「他者」の境界線をなぞる。

触れるものは、触れられるものの輪郭をあきらかにする。

私たちは他者の身体に触れて施術をしながら、ひとつひとつ一日一日違うその形を、一瞬一瞬を紡いで中空に描いている。それはたちどころに消える、ひとつの記録のようなものだ。

それは、今確かにそこにある生命、その造形や営みを、より広い世界や宇宙に向けて『美しいもの』『かけがえのないもの』として示すような作業なのではないだろうか。あるいはたただ繰り返し「今」という刹那を讃える舞のようなもの。自分の仕事とはそのようなものなのではないか。

 

そう考えると、今や確かに私は「あきらかにし、その美しさを示す」という「章」の名の通りに生きているのかもしれない。

自分につけられた名前と、こうして届けられたその意味を大切にしたいと思う。

 

と、これは全然関係ない話だけれど、(そしてすでにどこかに書いたけれど)私は宮崎駿作品の中では、『千と千尋の神隠し』が特に好きな作品のひとつ。

あのお話は、私には「自分の名前を思い出せ」という強いメッセージを持っている。

ハクが自分の名前を思い出し、本来の自分の力を取り戻す、圧巻のシーン。

 

自分の名前を知る(あるいは思い出す)ということは、とても重要なことなのだろうと思う。

 

あなたは、自分の名前の意味を知っていますか?